私は、原子力について何も分かっていない頃から、どこか不安を感じていました。
言葉そのものが重かったのです。決定的で、ひとたび失敗すれば取り返しがつかない、そんな印象がありました。
その感覚は、突然生まれたものではありません。
核兵器、冷戦、そして「人類には制御しきれない力かもしれない」という歴史的な記憶。そうしたものが重なり合い、恐れは受け継がれ、強化され、広く共有されてきました。
当時、その恐れはもっともでした。
問題は、世界が変わったのに、私たちの恐れが更新されなかったことです。
ある危険は突然やってきます。
一方で、何十年ものあいだ、静かに私たちの周囲に存在し続ける危険もあります。
化石燃料は後者です。石炭、石油、天然ガスは身近で、見慣れています。だから心の警報が鳴りにくい。けれど実際には、大気汚染を通じて肺や心臓にダメージを与え、寿命を縮め、特に子どもや高齢者に大きな影響を与えています。この被害は一瞬で起きるわけではありません。時間をかけて、積み重なっていきます。
そして、あまりにも日常に溶け込んでいるため、私たちはそれを受け入れてしまいました。
放射線はまったく逆です。目に見えず、なじみがないため、わずかな量でも強い不安を引き起こします。ひとつの劇的な出来事が、何百万もの日常的な影響よりも強く心に残るのです。
この認識の差は重要です。いくつかの推計によれば、化石燃料による大気汚染は、世界で毎年何百万人もの早期死亡に関係している一方、原子力発電は、発電量あたりで見た場合、桁違いに少ない被害しか引き起こしていません。
これは、原子力にリスクがないという意味ではありません。どんなエネルギーにもリスクはあります。ただ、被害の「規模」がしばしば誤解されている、ということです。
規模を見誤ると、判断は現実からずれていきます。
エネルギー政策は、抽象的な議論のままで終わりません。
日本では、多くの原子炉が停止したあと、化石燃料の使用が大きく増えました。電気料金は上がり、二酸化炭素排出量も増えました。さらに、化石燃料の輸入額は急増し、原子力停止後の数年間で、数兆円規模に膨らみました。
それは日常生活の中では「思想の転換」として感じられたわけではありません。家計の負担が増え、企業の余裕がなくなり、長く暑い夏がより厳しく感じられる。そんな形で現れました。
人は政策を体験するのではありません。
結果を体験するのです。
エネルギー安全保障が現実の問題として見えてくるのは、状況が厳しくなったときです。猛暑のとき、世界的な危機が起きたとき、供給網が揺らぎ、価格が急騰したとき。燃料を海外に大きく依存する仕組みは、それだけで脆弱です。遠くで起きた出来事が、すぐに国内の生活に跳ね返ってきます。
そう考えると、安定した国産エネルギーは過激な選択ではありません。むしろ慎重で、リスクを抑える考え方です。不確実な世界の中で、社会が息をつく余地を与えてくれます。
それにもかかわらず、原子力が「無謀」だと語られることがあるのは、どこか不思議にも感じられます。実際には、原子力は外部リスクへの依存を減らす役割を果たすことが多いからです。
日本で福島を避けて語ることはできません。
福島の原子力事故は現実であり、深刻で、多くの人に深い傷を残しました。軽視されてはなりません。しかし、正しく理解される必要があります。
福島で起きたのは、原子力という科学が突然未知の振る舞いをしたからではありません。人のつくった仕組みの失敗でした。リスクは認識されており、警告も存在していました。それでも、コストや都合が優先され、監督が機能しなかった。
これは、統治や規制が弱まったときに起きる典型的な問題です。規制する側が、規制される産業に近づきすぎ、責任の所在が曖昧になる。その結果です。
この点を見誤ると、対応も誤ります。
技術を避けることでは、弱いガバナンスは直りません。監督体制が脆弱なままであれば、事故は別の形で再び起こります。石炭火力でも、化学プラントでも、ガス設備でも同じです。
福島の本当の教訓は、制度、インセンティブ、責任のあり方にありました。
しかし実際には、議論は技術への恐れに収束していき、制度改革は後回しにされました。
恐れそのものが敵なのではありません。
恐れは本来、私たちを守るためにあります。
問題は、その恐れが、状況が変わったあとも固定化され、恒久的な政策になってしまうことです。
原子力には、廃棄物管理、長期的な責任、コスト、事業運営といった現実的な課題があります。どれも重要で、真剣に向き合うべきものです。ただ、それらは工学とガバナンスの問題であって、リスクを正直に比較すること自体を避ける理由にはなりません。
いま私たちが直面している最大の脅威は、突然の大事故ではありません。もっとゆっくり進み、見えにくいもの、汚染、気候の不安定化、エネルギー依存、制度の弱さです。
これらに向き合うには、反射的な反応ではなく、冷静さが必要です。
エネルギーについて誠実に語るとは、過去を否定することではありません。恐れがどこから生まれたのかを認め、その恐れが、いまの世界にも当てはまるのかを問い直すことです。
直感ではなく、実際の結果でリスクを比べ、技術と同じ重さでガバナンスを考えること。理念ではなく、電気料金や空気の質、夏の暑さ、国の持続性といった日常に根ざして語ることです。
人は、グラフだけで考えを変えるわけではありません。
自分の生活と結びついたとき、そして尊重されていると感じたときに、初めて考え始めます。エネルギーの議論では、データと同じくらい信頼が重要です。
エネルギーの選択は、何十年にもわたって健康、安全、安定に影響します。だからこそ、過去の恐れに凍りついた議論ではなく、落ち着いて、事実に基づき、人間的な対話が必要です。
未来を決めるのは、どんな技術が存在するかではありません。
私たちが、どんな会話をする覚悟を持つかです。